背景としての書物

 作家や学者へのインタヴューのときに、後ろに書棚が写る。そうした構図が定形になっている。商売がら、そこに並んでいる本の背文字が気になる。いくらで買い取れるか、値踏みまでしたりする。前景の人物に箔をつける筈の書物群が、むしろ逆効果になっていることがよくある。大部で体裁こそ立派でも、ただ並べているだけ、ごくありふれた全集や講座もの、おそらく読んではいないのではとすら思わせる。

 NHKのBS放送で「100分de名著」という番組がある。独力ではとても歯が立たないような重厚な著作を、ゲストと司会の巧妙な対話を通して、噛み砕いて紹介してくれる。受信料拒否なんて言ったらバチが当たりそうな好番組なのだが、背景の書籍類がまるでなっていない。その選択も配列も、行き当たりばったり、直前に神田の古本屋街の百円均一で集めてきたようなものが並んでいる。

 かつて、文士の書斎探訪といった写真がよくあったが、映画評論家の双葉十三郎を真似て「ぼくの採点表」を付けてみる。澁澤龍彦や鹿島茂のそれには圧倒されるが、資金を注ぎこんだ大作でミーハーは喜ぶだろうが映画通にはもうひとつ、といった印象。どこか自己顕示や虚栄のコレクション臭がしてならない。これに対して、作品や邸宅のイメージとは違って、好感の持てるのが若き日の三島由紀夫の書斎だ。必要とするもの、愛好するものだけが、手間ヒマかけて並べられている。素朴さすら感じさせる。つまりケレン味がない。これを☆4つ以上とすると、吉本隆明もこのランク。少し下って☆3つ半ぐらいのところに大江健三郎がいる。井上靖とか浅田次郎とかになると、何のため、誰のための蔵書群なのか、高級リビングルームに置かれた、デコラの家具のような取り合わせで、もはや採点対照にならない。その美意識に疑いまで感じてしまう。

 少年の日に、蒸気機関車や軍艦が好きだった。その姿に魅せられるものがあった。少しでも早く走ること、出来るだけ多くの荷物を運ぶこと、あるいは敵を防ぎ敵に打ち勝つこと。そのための性能を高め改良を加える。そこには美的配慮なぞみじんもない。それなのに、その努力の果てに、何か崇高とでも言うべき美しさが実現されていて、少年の心をつかんで放さなかった。

 書棚の構成もこれに似ている気がする。研究の必要か愛読の熱意か、そのただひたすらな持続の故に、資金や空間の制約のなかで実現する経年の美のようなものがある。

 蔵書を見ればその人のかなりのことが分かる。分ってしまう。知的なことにとどまらない。金銭感覚や、時には性癖まで本人に会わなくても推測できることすらある。

 ちなみに掲載写真は小店カウンターの背の棚。ここから何が読みとれるか。店主は何かをこめたつもりで実は何をさらけだしているのか。採点、ご高評を乞う。

2023.7.18 島元 健作    

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