今年の一冊(2026年版)『テクノ封建制』

(ヤニス・バルファキス著 2025年 集英社)

 この一冊から受けた3つの驚きを書いてみたい。

・第一の驚き

 かねてから疑問に思っていたことがある。GAFAMとやらが、古典的な収奪や搾取もしていないのに、もちろんどんな強制力も使わずに巨富を貯めこんでいる一方、彼らの経営するテクノ空間を喜々として利用する億万という人々がいる。どう考えてもこの連中が彼らの利益を生み出しているのだ。だが、何故、そしてどうして、どうやって。その仕組みを見事に解明してくれている。驚きという他はない。一読すれば誰にでも分る。明快に説明されていることは、しかしとてつもなく恐ろしく、今や世界はそんな仕組みになってしまっているのかという驚き。

・第二の驚き

 ところが、その驚きの消えないままに、読書会のテキストにこの一冊を推奨したところ 誰ひとり、自分のようには、テクノロジーの発展のゆき着いた世界システムに、恐ろしさを感じていないようで、冷静に知的感想は述べても、バルファキスの警鐘から危機感を受けとってはいない。驚きをもって読了していないことに驚かざるを得なかった。

・第三の驚き

 ただ、これだけ深く鋭く怒りをもってデジタルの世界をえぐっている著者が、しかしこの現状、この趨勢に抗うのは簡単ではないとして、次のように書いていることに驚いた。

――もちろん現金しか使わず、実店舗でしか買い物をせず、固定電話しか使わず、さらにインターネットに接続していない昔ながらの折りたたみ携帯電話だけしか使わないなら話は別だ・・・中略・・・世捨て人になりたいのでもない限り、抵抗しても無駄なだけだ。――

 他でもないこの私は、ほとんどそういう生活をしているし、だからといって、世を捨てているつもりでもない。とりたてて清貧、禁欲的な毎日を送ってもいない。日毎の晩酌を嗜む程度の稼ぎはあって、月一回の読書会で議論をたたかわす友達づき合いもある。自慢なぞできもしないが、しかしその生活に悲観も、そして何の不便もない。

 この著者も、そして鋭く的を衝いた解説を書いている斎藤幸平も、この世界の前途を悲観しているようだが、私に言わせれば対策はいたってシンプル、私のような人間が多数派になりさえすればいいではないか。

 そうは言っても、何故か分らないが、私に賛同するような人はいないし、どうしてもスマホとやらを棄てられぬらしい。私は預言者でも何でもないから、悔い改めよとも、地獄への道はスマホが導いているとも、宣ったりはしないけれども、テクノ封建制とやらの農奴なぞになりたくはない。

 ただ、ここまで書いてきて、何と言ったらいいのか、逆転の発想のようなひらめきが生じた。覚えておられるかどうか、昨年(2025年)の「今年の一冊」で私が取り上げたのは、アガンペンの『いと高き貧しさ―修道院規則と生の形式―』だった。イタリア北部、アッシジのフランシスコ修道院の信仰生活の考察を通して、所有と消費の円環に対し、その諸規定の外に、必要と使用という全く異なる人間の生活を実現しようとする試みとして、それを歴史的、原理的に描き尽している。

 若い日から、そして年老いて一層、隠棲とか脱俗とかいうのは自分のひとつの夢であった。そんな私の漠然とした憧れのようなものに、大げさに言えば、思想的根拠を与えられたような思いを抱いた。

 しかし、ではそれをどこで、どうやってということになると、やはり夢は夢のままで、いくらアッシジへの想いを募らせても、それは観光旅行としてしか実現しない。

 突然の覚醒は、そこのところで生じた。マルクスをまねて言えば、ロドスならぬ、ここがアッシジだ、ここで生きよということであった。今のままの私の生活流儀を徹底すれば、世の中の方から私を捨ててくれる。僧衣をまとわなくても、祈りと瞑想と奉仕の厳しい戒律で日常を送らなくても、このテクノ全盛の世では、世捨て人の異界へと追いやってくれる。出家なぞしなくても、難行苦行を試みなくても、今の場所に留まり、今以上の便利とやらを追っかけたりしないでいればいい。在家修行僧、ひとり修道院が実現することになる。

 小林秀雄はどこかで、世を捨てようとしたって捨てられるものではない、世から捨てられなくちゃ駄目だ、とか言っていた。まさしくその通り、というところだ。ひょっとしたら、ただの痩せ我慢かもしれないと思ってもいた自分の生き方に(この著者の本意では丸でないけれども)大きな励ましを与えてくれたヤニス・バルファキスに感謝したい。実は、そのことに私自身が一番びっくりしている。

2026.1.18 島元健作

書架が物語るもの

 ある著名な詩人の蔵書の引取りを頼まれたことがある。大量ではあったが、評価には一切注文はつけないということだし、自分も詩には少し興味はあるので、仕事としては楽しいものになる筈だった。もちろん手間をかけただけの収益は上って何の文句を言う筋合いもないのだけれども、いささか肩すかしのような感じがあった。ひとことで言うと、ほとんど詩の本しか、それもここ10年20年のものしかない。現代詩の大家の、大部の全詩集のような高額のものも揃っていて、立派な書棚ではあるものの、どう言ったらいいのか、時間の堆積が余り感じられないし、またその20年ぐらいの地層に、どん欲に多彩な礎石を積み重ねてきた跡が見られないのだ。

 誰もが、青春の時代からの蔵書を保存できる訳でもないし、興味を引く本を手あたり次第に並べられもしないとしても、個人の書棚にはその配列を含めて、その所有者の内面の形成史のようなものが自ずからにじみ出てくる。古本屋も何年もやっていると、旧の持主が亡くなっている場合でも、その人柄までが偲ばれて、感銘したり発見があったり、商いの収益とは別の、何というか眼福のようなものがある。これまでにも、蔵書量の多寡、その分野、傾向にかかわらず、そうした思い出はいくつもある。

 結論を先に言ってしまうと、ここには何か現在の文化の趨勢、時代相のようなものがあるように思われてならない。おそらく現代歌人のところへ行っても、あるいは現代経済の学者であっても同じなのではないか。いわば売れっ子で活躍している人ほど、こうなっている気がする。要するに、時代の情報への応接に追われ、所属する言わば業界での位置を脆くしないためには、過去に遡るとか、他分野に興味を示すなどという余裕が持てないのだろう。

 出発点、初発のモチーフを促し形成したのはそんなことではなかった筈だ。それは教養と言っても違うし、また決して雑学のようなものでもない。必死にあらゆるものを吸収し選別し ある日窯変でもするように主題が決まり出発が促されたのだろう。それなのに何故、ある年になると、そしてそれなりのキャリアを積むと もう出来上ったとばかりになるのか。そして同業者から寄贈を受けたような本ばかりに囲まれてしまうのか。

 ういういしい問題意識や切実な関心で読まれてきた本が並ぶ棚には何か訴えてくるものがある。それが古書価は高くはない雑書のような分類に入るものでも、何か洗いざらしの仕事着のような風格がある。 そうした言わば小振りの蔵書を手放した、手放さざるを得なかった、顧客たちの思い出を大切に これからの商いを励んでゆきたい。

2024.2.6 島元 健作   

背景としての書物

 作家や学者へのインタヴューのときに、後ろに書棚が写る。そうした構図が定形になっている。商売がら、そこに並んでいる本の背文字が気になる。いくらで買い取れるか、値踏みまでしたりする。前景の人物に箔をつける筈の書物群が、むしろ逆効果になっていることがよくある。大部で体裁こそ立派でも、ただ並べているだけ、ごくありふれた全集や講座もの、おそらく読んではいないのではとすら思わせる。

 NHKのBS放送で「100分de名著」という番組がある。独力ではとても歯が立たないような重厚な著作を、ゲストと司会の巧妙な対話を通して、噛み砕いて紹介してくれる。受信料拒否なんて言ったらバチが当たりそうな好番組なのだが、背景の書籍類がまるでなっていない。その選択も配列も、行き当たりばったり、直前に神田の古本屋街の百円均一で集めてきたようなものが並んでいる。

 かつて、文士の書斎探訪といった写真がよくあったが、映画評論家の双葉十三郎を真似て「ぼくの採点表」を付けてみる。澁澤龍彦や鹿島茂のそれには圧倒されるが、資金を注ぎこんだ大作でミーハーは喜ぶだろうが映画通にはもうひとつ、といった印象。どこか自己顕示や虚栄のコレクション臭がしてならない。これに対して、作品や邸宅のイメージとは違って、好感の持てるのが若き日の三島由紀夫の書斎だ。必要とするもの、愛好するものだけが、手間ヒマかけて並べられている。素朴さすら感じさせる。つまりケレン味がない。これを☆4つ以上とすると、吉本隆明もこのランク。少し下って☆3つ半ぐらいのところに大江健三郎がいる。井上靖とか浅田次郎とかになると、何のため、誰のための蔵書群なのか、高級リビングルームに置かれた、デコラの家具のような取り合わせで、もはや採点対照にならない。その美意識に疑いまで感じてしまう。

 少年の日に、蒸気機関車や軍艦が好きだった。その姿に魅せられるものがあった。少しでも早く走ること、出来るだけ多くの荷物を運ぶこと、あるいは敵を防ぎ敵に打ち勝つこと。そのための性能を高め改良を加える。そこには美的配慮なぞみじんもない。それなのに、その努力の果てに、何か崇高とでも言うべき美しさが実現されていて、少年の心をつかんで放さなかった。

 書棚の構成もこれに似ている気がする。研究の必要か愛読の熱意か、そのただひたすらな持続の故に、資金や空間の制約のなかで実現する経年の美のようなものがある。

 蔵書を見ればその人のかなりのことが分かる。分ってしまう。知的なことにとどまらない。金銭感覚や、時には性癖まで本人に会わなくても推測できることすらある。

 ちなみに掲載写真は小店カウンターの背の棚。ここから何が読みとれるか。店主は何かをこめたつもりで実は何をさらけだしているのか。採点、ご高評を乞う。

2023.7.18 島元 健作    

時が付加するものを商いたい

 チャットGPTとかを巡っての議論が喧しい。小生のようなガラパゴス島原人には何のことかよく分らない。ただ、AIの力を借りれば何でも作り出せるような風潮には大いに疑いを持つ。

 そうは言っても、我が出版部のやっているPODもこうしたテクノロジーの流れの中で可能となっている。一点しかないオリジナルなものが、安価にたやすく復元できる。確かにすばらしい技術の力だ。ではそれで、オリジナルなものの価値は崩壊してしまうのだろうか。そのすべての属性が再現できるのだろうか。

 いま古本屋の大勢はネットによる通信販売になってきている。その商品掲載の際の状態表記で「経年によるヤケあり」という常套文句がある。それを劣化と見なし欠点として表示している。引線があったり汚れがあれば欠陥に違いないが、経年による変化それ自体はオリジナルの宿命、というより、それを証明する特質ではないのか。

 たとえば、プラモデル作りの趣味が昂じるとピカピカの完成品に、わざわざダメージ加工をするそうだ。モデルとする過去の原形に近づけるために、風雪にさらされてきたような細工をする訳だ。根付という帯にはさむアクセサリーがある。これの愛好家たちは新品同様のものより、言わば使い古し手垢にまみれて生じた変化を「なれ」と称して高く評価する。さらに古染付では、くすみは枯淡の味わいとして賞揚される。

 つまり、原型→経年→劣化→減点という見方をしない。オリジナルがただその稀少性だけで貴重な訳ではなく、年月に耐えて愛惜されてきたことが尊く、時間をかけなければ現前しない価値があるという考えなのだ。原型そっくりさんは作れても、それが経てきた時間までは再製できない。どれほど物質的変化のように見えて、そうした分析手法では説明できない、人間のノスタルジーにかかわる領域がある。そしてそれを愛玩できるのは人間だけなのだ。AIがどれほど未来をバラ色に描こうが、しょせんそれはピカピカの「今だけ」の世界だ。個人であれ社会であれ、過去からの持続があってこそアイデンティティーが保たれる筈だ。一冊の古書のヤケやくすみを嫌って、やたら新品同様を求めるのも ある種の玩物喪志なのではないか。

 ネット上の応接に追われている本業の鬱屈を吐露しました。出版物の方の新品は それはそれでご愛顧下さい。

                    2023.5.31 島元 健作

店主挨拶

 小店は、かねてより絶版古書に限定して商いをしてきました。そのために、年代の古いものはいいのですが、発行から十数年ぐらいのものについては、絶版かどうかすべて調べます。今のようなネットによる調査なぞない時代には、各出版社の出版目録をとり寄せたり、電話をかけたり往復ハガキを出したり 一冊づつ裏づけをとっていました。その時に知ったのは、時流には乗ってなくてもユニークで中身のある、そして少部数でも後世に残したいような書物を出している小出版社ほど倒産したりして転居先不明になっていたことでした。

 古書の商いで基礎を作って、信用と少しの蓄えができたら、いつか出版を試みてみたいというのは昔からの夢でした。しかし絶版調べで分ったことは、それが如何にリスクの多い事業かということでした。

 そんな夢を封印して、創業以来50年、昨今のITなんたらに違和を感じ、スマホ全盛に嫌悪を覚え、ガラパゴス島で玉砕するつもりでいたところが、その電子技術の進化のおかげか、製作費上のリスクもなく、また在庫負担のない、PODという方式が開発されていることを知りました。そこでは、小店は従来にも増して、稀少な資料の発掘に努めさえすれば、後はその工程に乗せると、装幀こそ原本とは違うものの堅牢で読みやすい復刻版が安価に提供できるということでした。勿論その工程には、小生如きアナログ原人には不可能な、さまざまな技能や手間が必要なのですが、強力な相棒を得て実現にこぎつけました。

 紙に印字された、一枚づつ手で頁を繰る、そういうものとしての本を、小資本でも出せるなら、その限りで電子システムの力を借りるのも悪くはない。それなら発掘した書物を再評価して単品として一人の注文者に提供するのとは別に、それを復刻して、もう少し多くの方に求めやすい価格で頒布するのも古本屋の仕事に出来る筈だ。

 出版の長い歴史のなかで埋もれたままの、先人たちの理想や志のようなものを、ささやかな形ではあれ なんとか受け継いでゆくつもりです。

 昨年に仕上げた8冊を手始めに順次刊行予定です。出版企画の傾向や規準は歴史性や社会性のあるもの、社会・人文科学的批判精神に耐えうるものに絞ります。言わばプリミティブな復刻ですので、解説等は付けてはいませんが、意図するところや意義についてはいつでも言明の用意をしています。まだよちよち歩きの段階ですが、今後の成長を期待して下さい。

2023.1.20

書砦 梁山泊

島元 健作