
(ヤニス・バルファキス著 2025年 集英社)
この一冊から受けた3つの驚きを書いてみたい。
・第一の驚き
かねてから疑問に思っていたことがある。GAFAMとやらが、古典的な収奪や搾取もしていないのに、もちろんどんな強制力も使わずに巨富を貯めこんでいる一方、彼らの経営するテクノ空間を喜々として利用する億万という人々がいる。どう考えてもこの連中が彼らの利益を生み出しているのだ。だが、何故、そしてどうして、どうやって。その仕組みを見事に解明してくれている。驚きという他はない。一読すれば誰にでも分る。明快に説明されていることは、しかしとてつもなく恐ろしく、今や世界はそんな仕組みになってしまっているのかという驚き。
・第二の驚き
ところが、その驚きの消えないままに、読書会のテキストにこの一冊を推奨したところ 誰ひとり、自分のようには、テクノロジーの発展のゆき着いた世界システムに、恐ろしさを感じていないようで、冷静に知的感想は述べても、バルファキスの警鐘から危機感を受けとってはいない。驚きをもって読了していないことに驚かざるを得なかった。
・第三の驚き
ただ、これだけ深く鋭く怒りをもってデジタルの世界をえぐっている著者が、しかしこの現状、この趨勢に抗うのは簡単ではないとして、次のように書いていることに驚いた。
――もちろん現金しか使わず、実店舗でしか買い物をせず、固定電話しか使わず、さらにインターネットに接続していない昔ながらの折りたたみ携帯電話だけしか使わないなら話は別だ・・・中略・・・世捨て人になりたいのでもない限り、抵抗しても無駄なだけだ。――
他でもないこの私は、ほとんどそういう生活をしているし、だからといって、世を捨てているつもりでもない。とりたてて清貧、禁欲的な毎日を送ってもいない。日毎の晩酌を嗜む程度の稼ぎはあって、月一回の読書会で議論をたたかわす友達づき合いもある。自慢なぞできもしないが、しかしその生活に悲観も、そして何の不便もない。
この著者も、そして鋭く的を衝いた解説を書いている斎藤幸平も、この世界の前途を悲観しているようだが、私に言わせれば対策はいたってシンプル、私のような人間が多数派になりさえすればいいではないか。
そうは言っても、何故か分らないが、私に賛同するような人はいないし、どうしてもスマホとやらを棄てられぬらしい。私は預言者でも何でもないから、悔い改めよとも、地獄への道はスマホが導いているとも、宣ったりはしないけれども、テクノ封建制とやらの農奴なぞになりたくはない。
ただ、ここまで書いてきて、何と言ったらいいのか、逆転の発想のようなひらめきが生じた。覚えておられるかどうか、昨年(2025年)の「今年の一冊」で私が取り上げたのは、アガンペンの『いと高き貧しさ―修道院規則と生の形式―』だった。イタリア北部、アッシジのフランシスコ修道院の信仰生活の考察を通して、所有と消費の円環に対し、その諸規定の外に、必要と使用という全く異なる人間の生活を実現しようとする試みとして、それを歴史的、原理的に描き尽している。

若い日から、そして年老いて一層、隠棲とか脱俗とかいうのは自分のひとつの夢であった。そんな私の漠然とした憧れのようなものに、大げさに言えば、思想的根拠を与えられたような思いを抱いた。
しかし、ではそれをどこで、どうやってということになると、やはり夢は夢のままで、いくらアッシジへの想いを募らせても、それは観光旅行としてしか実現しない。
突然の覚醒は、そこのところで生じた。マルクスをまねて言えば、ロドスならぬ、ここがアッシジだ、ここで生きよということであった。今のままの私の生活流儀を徹底すれば、世の中の方から私を捨ててくれる。僧衣をまとわなくても、祈りと瞑想と奉仕の厳しい戒律で日常を送らなくても、このテクノ全盛の世では、世捨て人の異界へと追いやってくれる。出家なぞしなくても、難行苦行を試みなくても、今の場所に留まり、今以上の便利とやらを追っかけたりしないでいればいい。在家修行僧、ひとり修道院が実現することになる。
小林秀雄はどこかで、世を捨てようとしたって捨てられるものではない、世から捨てられなくちゃ駄目だ、とか言っていた。まさしくその通り、というところだ。ひょっとしたら、ただの痩せ我慢かもしれないと思ってもいた自分の生き方に(この著者の本意では丸でないけれども)大きな励ましを与えてくれたヤニス・バルファキスに感謝したい。実は、そのことに私自身が一番びっくりしている。
2026.1.18 島元健作


