ある著名な詩人の蔵書の引取りを頼まれたことがある。大量ではあったが、評価には一切注文はつけないということだし、自分も詩には少し興味はあるので、仕事としては楽しいものになる筈だった。もちろん手間をかけただけの収益は上って何の文句を言う筋合いもないのだけれども、いささか肩すかしのような感じがあった。ひとことで言うと、ほとんど詩の本しか、それもここ10年20年のものしかない。現代詩の大家の、大部の全詩集のような高額のものも揃っていて、立派な書棚ではあるものの、どう言ったらいいのか、時間の堆積が余り感じられないし、またその20年ぐらいの地層に、どん欲に多彩な礎石を積み重ねてきた跡が見られないのだ。
誰もが、青春の時代からの蔵書を保存できる訳でもないし、興味を引く本を手あたり次第に並べられもしないとしても、個人の書棚にはその配列を含めて、その所有者の内面の形成史のようなものが自ずからにじみ出てくる。古本屋も何年もやっていると、旧の持主が亡くなっている場合でも、その人柄までが偲ばれて、感銘したり発見があったり、商いの収益とは別の、何というか眼福のようなものがある。これまでにも、蔵書量の多寡、その分野、傾向にかかわらず、そうした思い出はいくつもある。
結論を先に言ってしまうと、ここには何か現在の文化の趨勢、時代相のようなものがあるように思われてならない。おそらく現代歌人のところへ行っても、あるいは現代経済の学者であっても同じなのではないか。いわば売れっ子で活躍している人ほど、こうなっている気がする。要するに、時代の情報への応接に追われ、所属する言わば業界での位置を脆くしないためには、過去に遡るとか、他分野に興味を示すなどという余裕が持てないのだろう。
出発点、初発のモチーフを促し形成したのはそんなことではなかった筈だ。それは教養と言っても違うし、また決して雑学のようなものでもない。必死にあらゆるものを吸収し選別し ある日窯変でもするように主題が決まり出発が促されたのだろう。それなのに何故、ある年になると、そしてそれなりのキャリアを積むと もう出来上ったとばかりになるのか。そして同業者から寄贈を受けたような本ばかりに囲まれてしまうのか。
ういういしい問題意識や切実な関心で読まれてきた本が並ぶ棚には何か訴えてくるものがある。それが古書価は高くはない雑書のような分類に入るものでも、何か洗いざらしの仕事着のような風格がある。 そうした言わば小振りの蔵書を手放した、手放さざるを得なかった、顧客たちの思い出を大切に これからの商いを励んでゆきたい。
2024.2.6 島元 健作